【事案の内容】
過去,万引きで有罪判決を3回受けたことがあり,直近前科で執行猶予の付された判決を受け,その猶予期間中であった事件当時70歳の男性が,平成27年12月28日,大阪市内の商店で漬物2点(500円相当)を万引きし,窃盗罪で起訴をされたという事案について,大阪地方裁判所が無罪を言い渡したケースです。
男性は,平成19年4月に脳梗塞を発症した後,年金と生活保護を受給しながら妻と2人で生活していました。平成22年5月,平成26年3月の2度,スーパーで万引きをして略式の罰金刑を受けており,さらに,平成27年10月にも同様の万引きの事案で懲役1年,執行猶予3年の有罪判決を受けていました。執行猶予付き判決を受けた1ヶ月後の平成27年11月には中等度ないし軽度の認知症と診断され,妻は男性に一人で買い物に行くことを禁じていましたが,散歩や図書館に出かけるなどしたとき,食料品を万引きする行為を繰り返していたようです(妻が知る限りでも3回あり,商品を買い取るなどして事件化することを防いでいたようです)。
事件当日,男性は,図書館などに行くためと妻に告げて自転車で家を出たのですが,午前10時40分頃,商店で本件の万引きをしました。犯行時,被害品が並べられていた陳列台のすぐ脇には店主が椅子に座って店番をしていたのですが,男性は,店主の目の前で商品を両手でつかみ,そのまま店を出ました。店主が「お金は」などと声をかけたのですが,男性は,そのまま自転車に乗って走り始め,店から85mの地点で追いかけてきた店主の息子に肩をつかまれ,特に抵抗することもなくその場に座り込み,逮捕されました。所持品には,別のスーパーで万引きをした値札シールのはがされたステーキ肉(2枚入り)2パックが入っていました。
本事案の争点は,男性が事件当時,認知症の影響によって行為の違法性の弁識や行動の制御が不可能な状態(心神喪失状態)に陥っていたと言えるかです。
【裁判所の判断】
〇 直近前科の懲役刑の執行猶予期間中にあり,妻から単独での買い物を禁止されるなどし,当日も妻が家で昼食の準備をしている中で,老夫婦2人分をはるかに超える量のステーキ肉や漬物を盗むという本件当日の被告人の行動は,同認知症の影響を考慮しないと合理的な説明ができず,同認知症が発症した可能性のある時期以前の被告人には本件のような万引き等の問題行動はみられず,発症の前後で明らかな懸隔が認められることも併せみると,本件当時の被告人につき,事理弁識能力ないし行動制御能力が著しく減弱していたのはもとより,これらの能力を欠いていた疑いは合理的に否定できない。
→ 裁判所は,被告人が本件当時前頭側頭葉型認知症(FTD)の影響によって心神喪失の状態に陥っていた可能性を合理的に否定することができないとし,被告人に無罪を言い渡しました。
【解説】
◇ 刑事責任能力
人が刑罰法規に触れるような行為をした時,その人物に対し事件の責任を問うことができるか(刑罰を科すことができるか),刑事責任能力があると言えるかが問題となります。刑事責任能力は,事物の是非・善悪を弁別し(事理弁識能力)と,それに従って行動する能力(行動制御能力)とからなり,この能力を欠いてしまっている人に対しては,その行為を非難することができないため,刑罰を科すことはできません。
日本の刑法は,刑事責任能力が完全に損なわれている場合を「心神喪失(シンシンソウシツ)」と称して刑罰を科すことはできないとし,著しく減退している場合を「心神耗弱(コウジャク)」と称して刑の減軽事由としています(刑法第39条)。
〔刑法第39条〕
心神喪失者の行為は罰しない
心神耗弱者の行為はその刑を減軽する
◇ 刑事責任能力の判断
行為者の刑事責任能力を判断するには,その前提となる“生物学的要素”と“心理学的要素”を評価することになります。“生物学的要素”の評価とは,わかりやすく言うと精神疾患・精神障害があるかどうかの判断,“心理学的要素”の評価とは,事理弁識能力,行動制御能力の有無・程度についての判断となります。
刑事責任能力の有無を判断するのは最終的には裁判官です。ただ,裁判官は必ずしも精神医学の知識を持っているわけではありません。このため,精神科医に依頼をして鑑定が行われることもあります(精神鑑定)。しかし,精神鑑定が実施された場合であっても,刑事責任能力に関する判断はあくまで法律判断であるため,精神鑑定の結果をどう評価するかは裁判官に委ねられていることになります(S58.9.13 最高裁第3小法廷決定)。
◇ 認知症と刑事責任能力
刑事責任能力が問題となる疾患として典型的なものは統合失調症です。統合失調症では,幻覚,妄想によって行動が支配されて行動制御能力が減退することがあり,この点が認められれば,制御能力が損なわれた程度に応じて心神喪失,心神耗弱が認定されることになります。また,万引きとの関係でしばしば問題となる疾患としては,クレプトマニア(窃盗壁)があります。クレプトマニアは,経済的な利益を得るためではなく,窃盗それ自体への衝動から盗みを繰り返してしまうという精神障害の一種で,この疾患があると,特に行動制御能力に影響が生じると考えられています。
これに対し,本件の男性のような“認知症”については裁判例の集積が乏しく,責任能力を欠くとして無罪とされた事例はほとんどありませんでした。
判決は,鑑定医の判断を踏まえ,“前頭側頭葉型認知症”(Fronto Temporal Dementia)にり患していた男性が,この疾病の影響によって,「買い物をして帰宅するという過去の習慣的行動が自動化した状態に陥り,被害店舗前で漬物が際立って見えると,執行猶予期間中であるなどの現状認識を持つことができないまま漬物を手に取り,清算の段取りを飛ばしてそのまま帰宅しようとして本件犯行を犯したとみることができる」と認定し,本件当時の男性について,「事理弁識能力ないし行動制御能力が著しく減弱していたのはもとより,これらの能力を欠いていた疑いは合理的に否定できない」と無罪を言い渡したものです。
【コメント】
認知症には,一般によく知られているアルツハイマー型認知症のほかに,レピー小体型認知症,脳血管性認知症,男性がり患していた前頭側頭葉型認知症(FTD)などがあります。前頭葉は思考や感情表現,判断をコントロールする部位,側頭葉は聴覚,味覚,さらには記憶,感情をつかさどる部位とどちらも非常に重要な器官です。この部位が委縮し,血流が低下することによって様々な症状を呈することになるのですが,アルツハイマー型やレビー小体型などと比べると,記憶の障害は目立たないのに対し,人格の変化や非常識な行動などが目立つとされているようです。
刑事責任能力に関する判断は,前述したように,あくまで法律判断ですから,FTDにり患しているというだけで心神喪失,心神耗弱と認定されるわけではなく,犯行時に取られた行動,犯行についての弁解内容,捕まった時の様子,普段の生活状況なども踏まえて総合的に判断されるものです。その意味であくまで事例判断ではありますが,FTDが事理弁識能力,行動制御能力を大きく損なうことがあることを明らかにした点で注目される判決と言えます。